宮崎市にあるデータセンターのアイコムティです。
ハウジング、ホスティングを中心としたサービスを提供しています。


デスクウォール

キャッシュレス宮崎

HOMEとは事典一般 ≫ エムネットとは

エムネットとは

エムネットは1995年に宮崎県宮崎市に設立されたISP(Internet Service Providerの略)運営会社。設立当時の社名は宮崎インターネット株式会社。2007年7月に同業3社を合併し、同時に社名をアイコムティ株式会社に変更した。

○経緯
設立した経緯は、東京でマーケティング会社(株式会社オールウェイズ)を設立していた水居 徹(みずい とおる)と、当時サン・マイクロシステムズにいた樋口貴章(ひぐちたかあき)と玉利哲彦(たまりてつひこ)の宮崎市出身者3名が会食をしていた際に、宮崎のインターネット環境が貧弱というよりもほとんど整備されていないという実態が話題となり、「インターネット」に最も近い立場にいる3人で、なにかできないかという思いから、設立のアイデアが誕生した。

その後、独自に調べた情報を持ち合った3名は、常に陸の孤島と呼ばれた故郷が、インターネット上でも陸の孤島になるのはつらい、ということで、会社を設立しISPをやろうということになった。サラリーマンである2名は新会社の活動には参加できないため、水居が代表取締役となった。そして水居の知人で、宮崎市で特許情報サービス会社を設立していた三重野文明(みえのふみあき)に参加をよびかけ、4名により会社を設立した。
1995年11月7日に登記が完了し、宮崎インターネットが設立された。事務所は水居の実家のある宮崎市神宮西のご近所であり、つきあいのあったフジモト米穀店の店舗跡(喫茶店に改装されていた)を格安で借り受けてスタート。まずは啓蒙ということでインターネット回線を引いてパソコンを2台設置してインターネットを経験させるというところから開始した。来客は多く、翌年のサービス開始に対しての期待感は大きかったという。というのも、ISPが宮崎になく、また電話回線が3分いくらという従量制であったため、宮崎の人たちは最も近い福岡のアクセスポイントに接続していた。したがって月間の電話料金が10万円を超えたというエピソードが残るほどであったので、宮崎でアクセスできることへの期待は大きかったといえる。

インターネット回線自体が高い時代であったため、宮崎に設置するISPとしてはバックボーン回線をどこにするかが最初の課題であった。樋口は東京インターネットの設立に関しSunの窓口として関与していたが、そもそも東京インターネットの高橋徹社長とは同じ会社にいたこともあった。そのため、樋口からの強い要請により、最終的には東京インターネットが宮崎にアクセスポイントを開設することになった。ちなみに東京インターネットの大株主であったセコムの子会社であるセコム宮崎はこのアクセスポイントを利用して、のちにISPを開設することとなる。
水居は実際のサービス拠点を探し始めるが、当時東京の大手ISP以外はバックボーン回線は光ファイバーでなく、速度も64Kbpsから128Kbps程度であった。田舎のISPはレベルが低いといわれるのを嫌い、当初から192Kbps以上の光ファイバーをバックボーンにするつもりであったので、光が利用できる場所を探した。NTTの宮崎支店に光ファイバー敷設場所の確認に行き門前払いをされるが、数日後法人担当のマネージャーが来訪し非礼を詫びると同時に情報を提供される。しかし、実際には対応可能なエリアは少なく、NTTからも、場所を決めて敷設を交渉するのが最適ではとアドバイスされる。
事務所のビルも24時間出入り自由という条件を満たすところが少なく、またコストの面からも満足すべきところが見つからなかった。ちょうどその頃に、水居の祖父が所有する土地でたき火をする人がいて困るというクレームがあり、祖父の水居甫が療養中ということで水居が対応をすることとなった。
この土地は田んぼであったが、祖父が将来の相続税用としてとっておいた場所で、託児所に貸していたが、事実上夜逃げ状態でプレハブが残っている状態であった。このプレハブを使ってはどうかというアイデアが水居に浮かび、祖父と話すことになるが、祖父はそれだったら建物を建てたらどうか、というアドバイスをする。結果的にはこの土地(300坪)に70坪程度の平屋を建てることとなった。
設備機器も光対応で多人数を想定したシステムとしたため、4000万円ほどの投資になり、新設の会社であるためリースの利用もできず、銀行に相談にいく。宮崎太陽銀行は水居家の主力取引銀行であり、当時の平和台支店長が会社の将来性を高く評価してくれたが、物的担保と会社の信用が不足したため、一度暗礁に乗り上げる。そこで、水居の母親幸子が経営する弁当屋「菜の花」を法人成りして有限会社みずいとし、祖父が保有する土地などを担保に資金を調達した。有限会社みずいが宮崎インターネットに設備をレンタルすることで事業がスタートすることとなった。
設備機器を導入、システム構築が始まるが、オールウェイズが当時他のISP立ち上げで忙しく、やむをえず、外部に委託することとなった。数社を選定し、水居の前職である東芝に依頼する。しかし、東芝にはこのような中小規模のISPの対応は計画を大幅に遅らせることとなり、水居らの期待を裏切り始めてきた。そこである時点から東芝を見切り、オールウェイズが他のISP立ち上げを完了する時期にまで遅れたため、オールウェイズに依頼することとなった。
最終的に1996年4月に回線接続サービスを開始することとなった。回線接続費用は月額3,000円の固定料金で、メールIDと無料WEBスペースが付属する。ドメインは宮崎のmを冠したmnetとし、サービス当初はmnet.or.jpで、のちにneドメインが誕生してからはmnet.ne.jpでサービスしている。

○地域の情報化
インターネット接続は一般の電話回線を使用するため、エムネットのサービス費用以外に電話代が必要となる。宮崎県内において、宮崎市の隣接地域(都城、日南等)と宮崎市との通話料金は市内料金(3分10円)の2倍であり、その次の距離(日向市)は5倍、さらに次の距離エリア(延岡)の場合は8倍と、同一県内では珍しい地域であった。つまり宮崎市のユーザは毎日1時間インターネットを利用すると200円、月額で6,000円の通話料がかかることになり、延岡のユーザは8倍の48,000円が必要になるということになる。延岡の旭化成に勤務していた設立メンバーであり非常勤取締役であった三重野から問題提起があり、延岡へのアクセスポイントの設置が検討されるようになった。同様に都城地域、日南串間地域、小林えびの地域、西都児湯地域、日向諸塚地域の設置の検討をおこなった。
設備資金の問題と現地で対応する人員の問題から、パートナーシップにより、アクセスポイントを設置していくこととなった。三重野は旭化成当時の人脈、宮崎県庁の団体の特許アドバイザーとしての人縁から精力的にパートナー探しに協力、1996年6月に延岡の宮安電機、日向の川長物産がパートナーとなりアクセスポイントを開設。また同時期に都城市のシステムナインとパートナーシップを結びアクセスポイントを開設した。
同年8月には西都市(西都水道、のちにたかがき書店に移設)、1997年4月に串間市(田中泰輔商店)、5月に小林市(銀星タクシー小林、のちに三和交通)にアクセスポイントを開設し、県内どこでも通話料3分10円で接続できるようになった。1996年11月には東京のオールウェイズ内にアクセスポイントを設置し、東京のユーザも獲得するようになる。
都城市のコミュニケーションプラスがISPを開設、また宮崎市のシステム会社であるデンサンやセコムテクノ宮崎などが1996年にISP事業を開始し、また全国展開しているFC事業者も宮崎に進出した。宮崎においてもインターネットブームが起こり、自治体系はデンサン、宮崎市内の企業はセコムというようにユーザ獲得に特性が出始めた。宮崎インターネットは県内全域にユーザを獲得した。

<この情報は書きかけです>